三木清 その3

 實際、今日の人間の多くはコンヴァレサンス(病氣の恢復)としてしか健康を感じることができないのではなからうか。これは青年の健康感とは違つてゐる。恢復期の健康感は自覺的であり、不安定である。健康といふのは元氣な若者においてのやうに自分が健康であることを自覺しない状態であるとすれば、これは健康といふこともできぬやうなものである。すでにルネサンスにはそのやうな健康がなかつた。ペトラルカなどが味はつたのは病氣恢復期の健康である。そこから生ずるリリシズムがルネサンス的人間を特徴附けてゐる。だから古典を復興しようとしたルネサンスは古典的であつたのではなく、むしろ浪漫的であつたのである。新しい古典主義はその時代において新たに興りつつあつた科學の精神によつてのみ可能であつた。ルネサンスの古典主義者はラファエロでなくてリオナルド・ダ・ヴィンチであつた。健康が恢復期の健康としてしか感じられないところに現代の根本的な抒情的、浪漫的性格がある。いまもし現代が新しいルネサンスであるとしたなら、そこから出てくる新しい古典主義の精神は如何なるものであらうか。

 親鸞の思想は深い体験によって滲透されている。これは彼のすべての著作について、『正信偈』や『和讃』のごとき一種の韻文、また仮名で書かれたもろもろの散文のみでなく、特に彼の主著『教行信証』についても言われ得ることである。『教行信証』はまことに不思議な書である。それはおもに経典や論釈の引用から成っている。しかもこれらの章句があたかも親鸞自身の文章であるかのごとく響いてくるのである。いわゆる自釈の文のみでなく、引用の文もまたそのまま彼の体験を語っている。『教行信証』全篇の大部分を占めるこれらの引文は、単に自己の教えの典拠を明らかにするために挙げられたのではなく、むしろ自己の思想と体験とを表現するために借りてこられたのであるとすれば、その引文の読み方、文字の加減などが原典の意味に拘泥することなく、親鸞独自のものを示しているのは当然のことであろう。『教行信証』は思索と体験とが渾然として一体をなした稀有の書である。それはその根柢に深く抒情を湛えた芸術作品でさえある。実に親鸞のどの著述に接しても我々をまず打つものはその抒情の不思議な魅力であり、そしてこれは彼の豊かな体験の深みから溢れ出たものにほかならない。

そしてこの世においてはしばしば徳よりも悖徳に一層大きな報酬が供せられるのでありますから、もし神を畏れず、また來世を期待しないならば、利よりも正を好む者は少數であるでありませう。もとより、神の存在の信ずべきことは、聖書に教へられてゐるところでありますから、まつたく眞でありますし、また逆に聖書の信ずべきことは、これを神から授けられたのでありますから、まつたく眞であります。まことに信仰は神の賜物でありまする故に、餘のことがらを信ぜしめんがために聖寵を垂れ給ふその神はまた、神の存在し給ふことをば我々をして信ぜしめんがために聖寵を垂れ得給ふからであります。とはいへ、これはしかし、信仰なき人々に對しましては、彼等はこれを循環論であると判斷いたすでありませうから、持ち出すことができませぬ。そして實に私は、單に諸賢一同並びに他の神學者たちが神の存在は自然的理性によつて證明せられ得ると確信いたされるといふことのみではなく、また聖書からも、神の認識は、被造物について我々が有する多くの認識よりも更に容易であり、まつたくその認識を有しない人々は咎むべきであるほど容易であることが推論せられるといふことに、氣づきました。