三木清 その2

 私がヴォルテールの『哲学辞書』を買つたのは、たしか大黒屋といふ本屋であつたと思ふ。これは京都ホテルの前にあつた洋書屋で、ホテルに来る外人が主な客であつたらしいが、現在はなくなつてしまつたやうだ。京都で洋書を売つてゐたのは丸善とこことの二軒であつたので、私は学生時代に折々出掛けて行つたが、或る時この本を見出したのである。初めそれを手に取つたとき、ヴォルテールと哲学辞書とがうまく結び附かなかつた。ヴォルテールが辞書を編纂するやうな人と考へられなかつたし、その内容も一見普通の辞書のやうではなかつたので、当時フランスのものについて知識の極めて貧弱であつた私は、実は、半信半疑であつたのだが、ともかくフランマリオンの叢書であるから、信用して買つて帰つた。今思ひ出して恥しい次第である。
 その時分フランス語があまり読めなかつた私は、語学の勉強のつもりで、字引を頼りに永い間かかつてこの本を一通り読んでみた。それからである、辞書についての私の観念が変つたのは。それまで辞書といへば、言葉の意味が分らない時に引くもので、その記述は客観的で筆者の私見など加へらるべきものではないと考へてゐた。ヴォルテールの哲学辞書はこれとはまるで反対のものであつたのである。項目は彼の立場から極めて主観的に選択され、それについて自分の哲学的見解が甚だ自由に述べられてゐる。その後東京に住むやうになつてから、或る時、京都へ行つたついでに丸善へ寄つたら、この本の英訳書があつたのも、何か妙な縁であるやうに思はれた。

 日本を出て来る前から、独逸ではヘーゲルの復興が行はれてゐることを私は聞いてゐました。いかにもヘーゲルに関する書物はかなり出てゐます。なるほど大学のゼミナールでは何処でも好んでヘーゲルを用ゐてゐます。しかし私たちを本当にヘーゲルの思想世界へ導いてくれる者はまだ見当らないやうに思ひます。――私にひとつの新しい独逸語を作らせて下さい――それらは凡てかの Hegelrei ではないでせうか。今の独逸でヘーゲルに関する学者としては、知識に於いてはミュンヘンのファルケンハイム、体系的な方面ではフライブルクのエビングハウスが第一流と見做されてゐます。第二線に立つ人々には、クローネル、ノール、ラッソン、ブルンシュテットなどがあります。ヴィンデルバントが『ヘーゲル主義の復興』と云ふ論文を書いたとき、彼はその頃新進気鋭のノールやエビングハウスを頭においてゐたと云はれてゐます。それ以来かなりの歳月は流れてゆきましたが、私たちのヘーゲルはカントがその当時もつたリープマン、ランゲほどの学者をさへもつ幸福にまだ逢つてゐないやうに思ひます。クローネル、エビングハウス、ハルトマンなどが等しくヘーゲルに就いての著述を企ててゐると云ふのも面白い現象です。これらの書物が出来ましたら、私も私たちのヘーゲルに関して纏つたことを書かせて戴きませう。

 洋書では滅多にないことだが、日本のこの頃の本はたいてい箱入になっている。これは発送、返品、その他の関係の必要から来ていることだろうが、我々にはあまり有難くないことのように思う。だいいち本屋の新刊棚の前に立ったとき、そのためにたいへん単調な感じを受ける。どの本もどの本も皆一様に感じられる。どれかを開けて内容を調べてみようとしても、箱があるのは不便だ。開いて見て元の箱に納めようとすれば、本には薄い包紙が着けてあるので、私のような不器用者にはなかなかうまく這入らず、ともすればその包紙を破ってしまう。他人の商品を毀損したようで何となく気持が悪い。店の者が横で睨附けていはしないかと思わず赤い顔をすることもある。そういうわけで箱に這入った本は本屋にせっかく陳列してあっても不精と遠慮とから開けてみないことが多い。内容を見もしないで表題だけで本を買うわけにもゆかないから、箱のことは出版屋の方で何とか工夫はないものであろうか。本を買って持って帰って読む段になると、私などはたいていの場合箱は棄ててしまう。不経済な話だ。
 尤もこれは洋書を見慣れている我々の間だけのことかも知れない。この国では本の箱はよほど大切なものとみえて、だいいち古本屋に払うとなると、箱があるとないとで値が違う。私の持っている本は殆どみな箱がない。いつかも古本屋が来たとき「外国にいられた方は皆さんがこうです」とか云っていた。箱を大事にするということは書物を尊重するという日本人の道徳の現われであるようにも思われる。私が子供の頃には、本を読み始める時と読み終った時とには、必ずそれを手で推し戴いて頭を下げるように云い附けられたものだ。これは私の家庭でそうさせられたばかりでなしに、その時分私の村の小学校でもそのようにする習慣があった。この頃はどうなったか。このように本を尊重するというのはもちろん決して悪いことではなく、ひとつの美徳でさえある。けれども一層大切なことは本を使うということである。本を使うことを学ばなければならない。本は道具と同じように使うべきものだということをしっかり頭に入れることが書物に対する倫理である。しかしどう使うかが問題だ。